日時:平成11年(1999)10月9日(土)
会場:天理市民会館
司会:島 幹典
指揮:米田道治,中村友子
[顧問]米田道治,桑山 悟,高木 章 [コーチ]中村友子
部員[3年:15名 2年:24名 1年:20名 計59名]
【演奏曲】
☆第一部
「K点を越えて」
「ぐるりよざ」から『祭り』
*OBと合同
「第二組曲」より 第一・三楽章
*OBバンド
「星条旗よ永遠なれ」〜ポップ・ステ−ジ版
「ウェストサイド・ストーリー・メドレー」
☆第二部
「グレンミラー・ポップス・オープニング・メドレー」
「ディズニー・ファンティリュージョン」
「名物・お楽しみメドレー特集」
「エル・キャピタン」
「雷神」
☆アンコール
「雷神」
「ブラジル」
この年の一番のできごとは・・・佐藤典明くんの出現である。彼は天中の吹奏楽部に在籍[第4回の学年]し,天中を卒業して競馬学校に入学。約十年,プロの騎手として活動してきたが,病気を煩い,1998年の9月「憩の家」に入院。12月に私を訪ねてきてくれた。病名は「ガン」,末期であることなど本人が私に伝えてくれた。あまりの出来事に私は言葉を失った。彼はすでにその域を乗り越えていたようだ。そして1999年の三学期,彼はかなり厳しい治療をしていたようだ。1999年4月18日,教祖誕生祭の日,行事を終えて後,紅白まんじゅうを持って初めて彼の病室を見舞った。
「騎乗前の減量に比べたら抗ガン材治療なんて楽で楽で・・・」彼は言っていた。彼の友人,吹奏楽部の同期生たちも連日病室を訪れていた。林田くん,今村くん,山本くん・・・・中学時代に同じ苦労を味わった連中との語らいが,少しでも彼の苦しさを和らげたのではないか・・・そう信じたい。私も「おさづけ」に通わせていただいた。4月の終わりの段階で「あと三ヶ月と言われている」と佐藤自身が教えてくれた。夏を終えられない・・・奇跡を信じた,ただただ奇跡を信じた。
その頃から林田くんとともに天中に顔を出すようになってきた。ある日,頼んでみた。「生徒に話をしてくれないか」
やきそば大会をした時,林田くん,そして第二専修科生二人(一人はOBの石橋)が調理をしてくれた。佐藤も一緒に楽しみながら食べた。生徒にとっては「いったい誰なんだろう?」「何故いつも帽子をかぶっているんだろう?」不思議に思ったに違いない。
そして1999年6月22日,佐藤は部員の前で語ってくれた。前夜,林田くんと一緒に一生懸命に文案を練ったそうだ。
始めの30分ほどは,いわゆる「説教」だった。生徒にとっては「何でこんなことを言われなあかんねん!」,そう思ったに違いない。私は辛かった。すべてを知ってる私はとっても辛かった! そして「説教」の後,彼は語り始めた。病気のこと,あと一ヶ月ほどだと医者から言われていること,吹奏楽を好きなのか?という問いかけ,何で努力ができひんねや!,お前たちは生きられるんやで!・・・・・
期末テストが終わってからも彼は毎日のように通ってくれた。コンクールの練習,パレードの練習,まるで現役に戻ったかのようだった。
「あと三ヶ月」そう医者から言われていた彼が8月を迎えた。何と「おやさとパレード」にも二回出場した。万一に備えて林田くんと打ち合わせをしての決行だった。8月7日,県コンクール,今年も「県ボツ」に終わった。ホール前の広場に佐藤もいてくれた。佐藤は言った「来年のコンクールまで生きててやるからな!お前ら絶対にがんばるんやぞお!オレは死なんからな!」
夏休みが終わって「マーチング」に出場,定期演奏会に向かうことになった。
ところが,佐藤の治療の日程が,定演の日程とぶつかることになってしまった。せめて前日の夜の練習には顔を出してくれと伝えていたが,だめだった。「第二組曲」の指揮は,事情を話して同級生の山本くん[第4回]に頼んだ。彼は快く引き受けてくれた。ありがとう!
OBバンドは松岡くん[第7回]が指導・指揮をしてくれた。これまで指揮をしていた横山くん[第3回]は1998年12月,ご命をいただきハワイ伝道庁に勤めることになったのである。
そして2000年1月14日朝,佐藤は出直した(死去した)。二年生はちょうど本校入試の前日の準備のために葬儀にも行けなかったが,1年と3年は火葬場まで行って最後のお別れをすることができた。 佐藤くん,ありがとう! 君のこと,この一年間のこと決して忘れないからね。